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毎日新聞に初代教頭、佐藤先生の記事掲載

毎日新聞岡山版6月14日,21日に芳泉高校初代教頭、佐藤先生の記事が出ていました。
インパール作戦で散った戦友のために部隊史を編纂されたことが書かれています。
毎日新聞の許可を得て、記事をお知らせいたします。

毎日新聞岡山支局長が、「(同窓生に広く読んでもらえれば、佐藤教頭の)奥様が喜ばれるでしょう」と言って当日配布とHPへのアップを全面的に了承して下さいました。この場を借りてお礼を申し上げます。


ある数学教師/上/岡山
 
「ぼくは戦記物をかくとわけのわからない(・・・・・・・・)怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」
  ◇
 「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるさん(88)は著書「総員玉砕せよ!」のあとがきにこう書いています。南太平洋のニューブリテン島で玉砕を覚悟した戦いを強いられ、空爆による負傷で左腕を失った水木さん。「将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯(ひきょう)ではなく“人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う」とも記しました。ちょうどこの本を読み返していたとき、「戦争の記録」を残すことに定年後の生活すべてをかけた元数学教師のことを知りました。
  ◇
 南区灘崎町川張に暮らした佐藤峰夫さん=写真は1943年撮影。3年前に85歳で亡くなりました。水木さんとは同じ学年に当たります。戦後、数学教師として県立津山、岡山大安寺高などの教壇に立ち、県立岡山芳泉高教頭で定年を迎えると、インパール作戦に投入された仲間たちの記録を残すことに全精力を注ぎます。
 東京物理学校(現東京理科大)を繰り上げ卒業し、岡山歩兵第154連隊に入隊。20歳でした。1943(昭和18)年にビルマ(ミャンマー)に上陸。佐藤さんは建築隊に所属して弾薬庫建設、送電線敷設などに当たり、ビルマ戦線で英軍機甲部隊と対峙(たいじ)します。
 一方、1944(昭和19)年、北ビルマからインド北東部・インパールへの侵攻を企てたインパール作戦に投入された第154連隊第2大隊は兵力の大半を失い、810人(前年の編成時)のうち祖国に帰れたのは三十数人。生存率わずか4%です。
  ◇
 「自分だけ生きて帰ってあいすまない。何か残してやろうと。そうでないと戦友が浮かばれない」
 生前の05年、テレビ取材に佐藤さんは記録への強い思いを言葉にしました。家族や教え子にはほとんど語らなかった言葉でした。
 佐藤さんは生還した第2大隊の有志とともに編さん委員会をつくり、「全滅の悲運に哭(な)く」「山野に散った戦友にささげん」といった大隊史を編みました。
 淡々と事実を掘り起こし、誠実に記録する。数学教師としての生き方がそこに見えるようですが、「山野に散った……」で目につくのはところどころ赤い文字で強調する部分。例えば「作家 司馬遼太郎氏はその著『春灯雑記』の中で、インパール作戦について次のように述べている」と赤字で記し、引用に移ります。
 「昭和19年3月、大本営でさえ成算に自信のなかったインパール作戦が東條の応諾でもって発動され、雨期と無補給と飢えのためにすべての兵士が、生きたまま幽鬼のように衰癆(すいろう)し、英印軍の砲弾で死ぬ以前に、大半がジャングルのなかで溶けるように死んだ。(中略)戦争の定義から外れた作戦で、自民族に対する精神病理学的な虐待としかいいようがないものであった」
  ◇
 強い、深い憤りが赤い文字に込められているのか。「そう思いますよ」。妻道子さん(86)の言葉です。次回も佐藤さんに登場してもらいます。【岡山支局長・松倉展人】
毎日新聞 2010年6月14日 地方版

ある数学教師/下 /岡山

 インパール作戦に参加した戦友らの記録づくりに、定年後のすべての人生をかけた南区灘崎町川張、佐藤峰夫さん(07年に85歳で死去)の話を続けます。
 戦後、数学教師として多くの教え子と接し、県立岡山芳泉高教頭を最後に82年に定年退職した佐藤さんは、岡山歩兵第154連隊第2大隊から生還した有志とともに、隊の記録づくりに取り組みます。「どうやって死んだのかを知りたい。ほとんど分かっていない」(生前のテレビインタビューから)。それが出発点でした。
 「足でしたよ、私。ずっと送り迎えでした」。妻の道子さん(86)です。戦地での病気などがもとで脊髄(せきずい)を病んだ佐藤さんは車の運転ができなかったため、教師時代から道子さんが車で送迎しました。定年後、県や県護国神社などに通い、一から資料を集めます。道子さんは車内で一日待ちます。ほとんど毎日。1カ月以上通うこともあり、時には靖国神社にも調べに出かけました。
 長い間、糖尿病やリウマチに苦しんだ佐藤さんですが、毎朝6時には起き、顔をタオルでふくとすぐに記録に取り掛かります。最初は800人以上の戦友を一人一枚のカードで整理。その後パソコンを取り入れ、ずっと向き合いました。「にぎりめし、つくってくれぇ」。仕事が一段落したときが短いおひるです。
 佐藤さんが責任者となって23年をかけて編集した記録集「山野に散った戦友にささげん」は、こうした日々から生まれました。無謀なインパール作戦により、生存率わずか4%という同大隊について、遺族らに趣意書を送って必要な項目を書き込んでもらい、大隊の821人中、599人までの住所を確定。隊員の所属や階級、出身地、留守宅や戦死者の死亡日時、場所までを詳細に残しました。事実が分かるにつれて版を改め、6年間で13版に。参加人員約10万のうち戦死者約3万、戦傷・戦病のため後送された者約2万、残存兵力約5万のうち半分以上も病人だったと伝えられるインパール作戦で、一人一人の存在をこれだけ克明に伝える資料はほかに知りません。
  ◇
 写真は東京物理学校(現東京理科大)に学んでいた19歳の佐藤さん。東京生まれの道子さんは、弟の勉強を佐藤さんにみてもらうなど、当時から家族ぐるみのふれあいがありました。
 岡山で入隊し、戦地に行くことが決まった佐藤さんは、道子さんに電報を打ちます。「戦地に行く人が会いたがっているんだから、行ってあげなさい」。伯母の言葉で道子さんは岡山に向かいます。それと知らぬ佐藤さんは京都の大学にいる道子さんの兄と会って岡山駅に戻ったところでした。
 「改札口に近寄ると、なんと、そこに道子が立っているではないか。(中略)俺(おれ)は家族をはじめ、この人たちのために征(ゆ)くのだと思っているが、覚悟のほどは話せず、『何時(いつ)までも元気でいてください。皆様によろしく』と上り列車に彼女を見送った」(佐藤さんの手記より)。佐藤さん21歳。道子さんは19歳でした。
 その63年後の06年。「山野に散った……」に、佐藤さんは「永久(とこしえ)に(戦友の)その名を留(とど)めんと 力いっぱい筆をとりました」と記しました。思いの強さを示すときの赤い文字でした。【岡山支局長・松倉展人】
毎日新聞 2010年6月21日 地方版

佐藤教頭新聞0058佐藤教頭新聞10059
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祝・吹奏楽部第4回定期演奏会開催 

 5期生の吹奏楽部OB(Percus.担当)です。この度は「岡山シンフォニーホール」での、吹奏楽部第4回定期演奏会の開催、誠におもでとうございます。
 我々の時代には連盟主催の「コンクール」と「吹奏楽祭」、野球部の「甲子園大会県予選」での応援、校内の「文化祭」に参加・出演するのが精一杯で、「定期演奏会」は「夢のまた夢」というのが実情でした。
 今回は、会場も、岡山市内ではもっとも設備の整った「岡山シンフォニーホール」とのこと。
 卒業後、30数年を経た今、後輩の現役部員の方々が、晴れの舞台に立たれることを、OBのひとりとして、大変嬉しく思っております。
 当日の、無事故・大成功を、心よりお祈りしております。

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